毎日新聞 2010年(平成22年)1月20日(水)
<卒業を控えた1954年、松竹を受験。しかしこの時も、映画に強くあこがれたわけではなかった>
成績は悪かった。授業に出ないんですから。当時は成績が良くないと一流企業には入れませんから。成績不問はマスコミしかない。でも新聞社受けてもいっぱいの人でね、弱りました。当時、バイトで生活なんてできないから。うちは貧乏で仕送りはないし、就職が決まらなくて食べられなくなるという不安は、いまだに夢に見ます。
卒業の年の1月か2月、遅れて松竹の募集があった。映研で接触した映画人は、独特の雰囲気を持ってたんです。集団で働いてる人のにおいというかね。僕は閉じこもりがちな青年だったから、自分が解放されると思ったんだな。才能が
あるとか向いてるとかじゃなく、未来に希望も持たず、大勢でワイワイ働く、その一員になれたらいいなと思ったんだね。
でも、映画会社も、当時は何千人も受けた。こりゃムリだと思いました。
<結果は不合格。しかし、戦争中に企業統合で製作から撤退した日活が制作を再開し、他社から人材を大量に引き抜いたおかげで、松竹に補欠合格となる>
日活の試験も受けて、そちらはどうやらうまくいってやれやれと思っていたら、本社に呼び出された。松竹から日活に移った西河克己監督がいて「松竹が追加募集をして、間もなく君に補欠の合格通知が行くはずだ。どっちを選ぶか返事してくれ」と言うんです。
困って山本薩夫さんに相談しました。山本さんは、「新しい日活もいいし、古い松竹も悪くないな」なんてわけが分かんない。だけど「僕も実は松竹にいたんだよ、悪い会社じゃないと思う」と。その言葉を手掛かりに、松竹に決めた。そういう時、古臭い松竹を選ぶっていうのが、僕なんだけどね。
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